考古学コラム Archeology Column

コラムNo.9 考古楽から考古学(その2)

津南町教育委員会  佐藤雅一

博物館には考古学に興味を持っている大人はもちろんのこと、考古学という言葉を初めて聞くという子供たちも数多く訪れてくる。考古学を専門に勉強をしたことがない私にとって、これらの子供たちとの触れ合いは、実に楽しい場面に出くわすことがある。

三条ジュニア考古学クラブは、学校のクラブではなく、三条市内に点在していた考古学に興味を持つ中学生の集まりでした。

クラブ設立の発端は、自ら発掘(盗掘)した土器や石器を三条商業高校社会科クラブ考古斑OBの松井寛さんに鑑定いただいたときに、やさしく「君たちが発掘していることは盗掘といって大切な遺跡を壊すことだから、これからは遺跡を保護する活動と楽しく考古学を学ぶことをしたらどうか」と諭していただきました。

当時の三条市立図書館は、一番奥の右奥が考古学の本が置かれており、そこへ本を借りに行くと見知らぬ学生とよく出会うのでした。彼も私たちと同様に、吉野屋遺跡に発掘(盗掘)に行っていたことを知り、共に声を掛けたのがきっかけで、考古学を学習するクラブを現実に設立することしました。

毎週、土曜日の午後、当時の三条中央公民館の和室を中学生が借り、考古学の学習会を開いたり、時には三条商業高校考古斑に出向いて、考古学の他流試合も楽しくやってのけました。また、クラブとして徒党を組んで下田村、見附市、巻町まで足を伸ばして表面採集調査を進めていたものです。

記憶にあるのは旧村松町の矢津遺跡や長岡市の馬高遺跡・三十稲葉遺跡の発掘に参加したことです。特に、友人二人で三十稲葉遺跡の発掘に参加したときのことです。真夏の炎天下の中だったことから、私が日射病で倒れ、松林(?)に連れて行かれやかんから氷水を頭にぶっ掛けられ「皆に迷惑がかかるから帰りなさい」と声を掛けられました。その大男は、見附市羽黒遺跡でやさしく対応してくれた考古学者だったのです。帰り際、中村孝行三郎先生が、「またこいよ」と頭をなでてくれ、一枚のチューインガムをくださいました。それは、それは大切な宝物であり、食べることなく、今も額に入り飾ってあります。

私たちが中学生の頃は高度成長期の真っ只中で、あちこちでゴルフ場建設が展開しており、自らの調査フィールドであった下田村にもいくつものゴルフ場建設が持ち上がりました。

三条商業高校考古斑の後盾もあり、私たちは遺跡保存を訴える展示を中央公民館弓道場で開催しました。ゴルフ場建設予定地で採集された遺物を展示し、ガリ版刷りで保護を訴える冊子を作り、緑と遺跡を保護する訴えを展開したのでした。今振り返れば末恐ろしい中学生軍団だったようです。

この小生意気な中学生は勢いついて、機関紙作成に入り込み、とうとう『三条JR考古学クラブ機関紙 創刊号』を刊行することになります。この小生意気な考古少年たちは、さらに活動が過熱するのでした。