遥か大昔に営まれた縄文文化は、その研究の深化によって様々なことが解明されてきました。いつ頃からが縄文時代なのかな?という疑問に対しても、遺跡から出土した炭化材や土器に付着した炭化物の測定(AMS14C年代測定)による探求が進み、多くの測定値が得られています。
近年、整備された較正年代によれば、今から15,600年前頃の氷河時代晩期(更新世末)に既に土器が作られ使用されており、その環境は氷河時代の終わりであることが判明しました。極めて寒冷な時期に、土器が生まれたのです。その土器使用による多くの社会的効果を歴史学的に評価し、土器の生成を指標として縄文時代の開幕とされています。また、縄文時代の終わりは今からおよそ2,900年前とされています。したがって、縄文時代は約1万年も継続した息の長い狩猟採集活動を中心とした時代だったのです。
考古学では、この長い縄文時代の変化を理解するために、便宜的に、古いほうから草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6時期に区分しています。火焔型土器は、中期の中頃に作られました。
草創期の初頭は、氷河時代の終わりにあたり、まだまだ寒冷な気候でした。その後、草創期前半にはやや温暖化を始めますが、草創期後半には寒冷期と温暖期が交互に入れ替わる不安定な気候が続きます。しかし、早期初頭になると安定した温暖化が進行し、前期の中頃が温暖化のピークに当たります。その頃には、千葉県館山付近に珊瑚が成育し、現在の奄美大島の環境が広がっていた模様です。その頃のことを、温暖化に伴い海水が上昇することで内陸平野部まで海水域や汽水域が広がることから「縄文海進」と呼んでいます。
火焔型土器が作られていた5,300年程前(中期の中頃)は、現在の気候に近く、新潟県信濃川沿岸には雪も降り、多雪地帯を形成していたようです。この温暖な気候は、後期に向けて寒冷化し、晩期になると現在の気候に近くなったと考えられています。
このように、縄文時代が営まれた1万年間には、幾度となく気候の変動があったのです。火焔型土器を作り上げた縄文人が体験した気候環境に一番近い環境が、100年前の新潟の気候環境であったといえます。
火焔型土器の時代に営まれた拠点的な村は、ある一定の領域を確保しながら河川に近接する段丘などの平坦面に営まれています。典型的な拠点集落である馬高遺跡(新潟県長岡市)などの調査事例から、広場を囲み住居が放射状に分布する形態をとることが判明しています。このような形態を示す村を「環状集落」と呼びます。環状集落の広場には、墓穴と推定される浅い楕円形の土坑が分布することが多いようです。
住居には長方形を呈する形態と楕円形を呈する形態があります。これら二形態の住居は、分布を異にして併存しています。家の上屋構造については不明ですが、近年、萱葺き住居ではなく、土葺き住居であった可能性が検討されています。
火焔型土器が作られた中期の中頃の精神文化を検討する場合、土偶や三角とう土製品、彫刻された石棒、ヒスイの大珠など、具体的な使用方法が分からない「第二の道具」から推察します。土偶は土器と同様に多様な型式土偶が併存している実態が判明してきました。彫刻石棒にも型式差が存在し、ヒスイ製大珠も偏在した分布があります。このような精神文化に関わる第二の道具について、一歩踏み込んだ議論が始まりました。
また、赤色塗彩された滑車形耳飾の存在は重要です。中期の中頃の火焔型土器の時代に集団表象として耳に穴を穿ち、耳飾をはめ込む風習がありました(現在のピアスのルーツ)。このような耳飾装着の風習は珍しいものであり、火焔型土器を保有した集団を考える際に、重要な鍵を握っています。