1911年、川崎市生まれ。岡本一平・かの子を父母にもつ。
東京美術学校(現在の東京藝術大学)中退後、渡欧。パリ大学のマルセル・モース門下で民族学を修める。アプストラクシオン・クレアシオン協会会員(1937年脱退)、国際シュルレアリスム・パリ展に《傷ましき腕》を出品。
ジョルジュ・バタイユと親交を深め「コレージュ・ド・ソシオロジー」、秘密結社「アセファル(無頭人)」に参加。帰国後、兵役につき中国戦線へ。復員後、上野毛にアトリエを構え活動を開始。花田清輝らと「夜の会」を結成し、戦後の前衛芸術運動を牽引した。
国内外で旺盛な創作活動を行う傍ら、1952年2月、縄文土器に出会った衝撃を「四次元との対話―縄文土器論」として『みづゑ』に発表。その後、『芸術新潮』の「日本再発見―芸術風土記」連載をきっかけに、列島各地のフィールドワークを精力的に行い、独自の視点による著作を多数発表。
1970年の日本万国博覧会(大阪)では、テーマ館展示プロデューサーを務め、《太陽の塔》を制作する傍ら、メキシコに断続的に渡り、《明日の神話》を制作した。近年、壁画が日本に移送され修復されたことは記憶に新しい。1996年1月に死去。
縄文文化というと、今では誰もが疑うことなく日本文化の源流だと思っている。ところが、つい50年前までは日本美術史に縄文は存在しなかった。縄文の美を再発見し、日本美術史を書き換えたのは岡本太郎である。というと、嘘のような話に聞えるかもしれないが、それまで、縄文について美術的な視点からの発言は誰もしていなく、太郎が1952年に『みずゑ』誌上で「四次元との対話――縄文土器論」を発表するまで、縄文土器や土偶は美術品ではなく工芸品という扱いを受けていた。
岡本太郎と縄文の出会いは、東京国立博物館の一室。考古学の遺物として陳列されていた異様な形の縄文土器に偶然出くわして、彼はこう叫んだ。
「なんだこれは!」
岡本太郎はパリのソルボンヌ大学で、フランス民族学の父とも称されるマルセル・モース門下で民族学を修めており、芸術家であり民族学者でもある太郎が、火焔型土器の写真を載せた「縄文土器論」で提示したのは、考古学的な解釈ではなく、縄文土器の造形美、四次元的な空間性、そして、縄文人の宇宙観を土台とした社会学的、哲学的な解釈である。
それが結果的に各方面に大きな衝撃を与え、建築やデザイン界を中心に縄文ブームがわきおこった。そして、弥生土器や埴輪を始まりとする「正統な」日本の伝統をくつがえし、以後、原始美術として縄文土器は美術書の巻頭を飾るようになり、日本美術史が書き換えられたのだ。今に続く縄文ブームの火付け役は、岡本太郎なのであった。
スマートな胴体。引き締まったくびれ。ふくよかな膨らみ。形だけをみると、実に美しいプロポーション、見事な曲線美である。見る者を魅惑する形とは裏腹に、この土の器は、外皮に奇妙な文様をまとっている。口縁部には奇妙な突起が貼りつき、4つの不可思議な把手が伸びあがる。縁の部分には棘のような三角のギザギザが波を打っている。なめらかな粘土の一本一本の線。それらがうねり、渦を巻き、凝集される小さな空間は、吐き気をもよおすほどの異様な無音の響きを周囲に放っている。この不思議な粘土の塊を目の当たりにする人は、いったい何を想像するのだろうか。
考古学者たちは、この不可思議なモノを「火焔型土器」と呼んでいる。この異様な形と文様に、燃え立つ炎のイメージを重ねたのだろう。岡本太郎もまた、この土器に根源的な美をみたのだが、彼が想起したものは「火炎」ではなかった。太郎の秘書であり、養女でもある岡本敏子は生前、こんなことを私に言っていた。
「岡本太郎さんはね、『火焔型土器は深海のイメージだ』と言ってたのよ。」
「深海ですか?」
「そう。『縄文人は深海を知っていたんだ』ってね。」
深海とは意外である。海といえば「水」であり、「火炎」とはまるで対極にあるものだ。土器は大地の奥底から掘り出された粘土を素材とし、火で焼きあげることで完成する。粘土は水を含み、土器で煮込み料理を作るときには水を使う。土器は水と密接な関係にあるし、大地の「深い」ところから掘り出されるが、深海とは程遠い。敏子さんもなぜ深海なのかは分からなかったらしいが、岡本太郎は火焔型土器に深海のイメージをみたのである。
いったい、この土器のどこが深海なのだろうか。縄文人も海に出て漁労を行っていた。強引に結びつけるとすれば、火焔型土器の隆帯文のうねりや口縁のギザギザは、さざ波や海原のうねりに似てはいる。渦巻文も渦潮と相似形である。しかし、深海とは無関係だ。あるいは、S字状の象徴的な把手が深海の生物をあらわしている、とでもいうのだろうか。いや、そんな皮相なことではないだろう。
火炎と深海。この土器を名づけた考古学者と、岡本太郎が直観的に感じとったイメージは、まったくかけ離れている。もしかすると、太郎は「火焔」という名前がもたらすイメージが気に食わず、アンチテーゼを投げかけただけなのかもしれない。しかし、文章として残すこともせず、傍にいた敏子にそう告げただけで終わってしまった。
岡本太郎が火焔型土器にみた「深海」とは何であったのか。今となっては、その真意を本人に訊ねることもできず、遺言のように残された言葉となってしまったが、ひょっとすると、そこに火焔型土器の謎をひもとく鍵がひそんでいるのかもしれない。
※信濃川火焔街道連携協議会公式ホームページから転載