中学1年の春、私は中村孝三郎先生著の『古代の追跡』を読み、はじめて「火焔土器」のことを知りました。同書のカバーを飾る、燃え上がるような形の土器に興味を持った私は、さっそく展示場所の長岡市立科学博物館(当時は悠久山にあった)を訪問しました。間近で見る火焔土器は、巨大な鶏頭冠把手や器面を覆いつくす隆起線文様など、写真のイメージよりずっと迫力がありました。私はこの土器の造形美にすっかり魅せられ、出土地点である「馬高遺跡」の現地を、この目で確かめたくなりました。
中之島の自宅から目指す関原台地までは、直線距離にして15キロ以上も離れています。1時間半以上も自転車をこぎ続けて、ようやく遺跡にたどりつくことができました。当時の馬高遺跡は、かなりの部分が煙草畑として耕作され、雪解け水で洗われた地表には、土器の細片がいっぱい落ちていました。
遺物の散布に気づいた私は、渦巻き文様のかけらが拾えることを期待し、さっそく表面採集に取り掛かりました。それから長い時間かけて、丹念に畑の中を探しましたが、目に付くのは縄目の土器ばかりです。時間の経過とともに、私は泥靴の重さが気になりだしました。付着した泥を何とかしようと、視線を落としたその瞬間、足元に何かガラスのようなものが見えたのです。恐る恐る拾い上げて泥をぬぐうと、黒曜石の立派な石鏃が姿を現しました。西日に照らされた石鏃は、光の乱反射でキラキラと輝き、まるで宝石のようです。その神秘的な美しさに私は、すっかり心を奪われてしまいました。
私が考古学を志すようになったのは、この時の鮮烈な体験が原動力となっています。
その後の私は、休みになると学業そっちのけで近隣の遺跡探査に没頭し、進学・就職といった人生の節目でも、考古学に関われる道を選択したのでした。
あれから35年近くがたち、遺跡で表面採集することもなくなりましたが、あの日の感動は、昨日のことのように思い出されます。