考古学コラム Archeology Column

コラムNo.5 考古楽から考古学(その1)

津南町教育委員会 佐藤雅一

私の考古学との出会いは、幼少期にさかのぼります。今振り返れば、日本列島改造論フィバー前夜の1969年の小学校5年生だったと記憶しています。

三条で生まれ育った私は、父と大崎山まで初めてのサイクリングの折、休息した場所が上野原遺跡だったのでした。ちょうど、その頃、宮城県二葉町で首長恐竜の化石を中学生が発見し、その学生の苗字を取って「スズキフタバリュウ」という学名が付いたというセンセーショナルな報道に感激しました。その二つの体験が導入となり、古い時代へ思いをはせ、興味を持ち、大崎山麻布谷入り口の路頭で恐竜化石の発掘を始めました。今思えば、恐竜なんか包含されない地層を泥だらけになって掘りまくっていました。そんなとき、地層上位にあった黒土から焼き物のかけらを発見したのでした。それが縄文土器との初めての対面です。

その発見を契機に、恐竜から縄文土器へと興味が移り掛けていた中学1年生のとき、吉野屋遺跡(当時栄村・現在三条市)に叔父が連れていってくれました。そのとき吉野屋遺跡は工場建設に伴いブルトーザーで破壊され、多くの発掘者が狸堀をし、多数の土器や石器が出土する様子を目の前にしました。その衝撃的な光景と体験を境に、私は、友人と日曜日になると吉野屋遺跡に向かい盗掘(本人は発掘と思っていました)に明け暮れました。

中学2年になった夏、半ノ木遺跡(当時栄村)の発掘が報道され、友人達と自転車に乗って見学に行きました。遺跡にはトラロープが張られ立ち入り禁止の看板がありました。近くでウロウロしていたら調査員の先生が来て、「中学生が来るところではない。早く帰れ!」と怒鳴られ、悲しい気持ちで帰路に着いたことを鮮明に覚えています。

一週間後、こんどは羽黒遺跡(見附市)の発掘が報道され、朝5時前に友人達と自転車で見附に向かいました。やっと探した調査地点は、土取り場でやはりトラロープが張られ、立ち入り禁止の看板が立てられていました。それを見て私たちは愕然としましたが、勇気を出して発掘調査を見学することを決め、ジャンケンに負けた私が先頭の露払い役でした。すると、髭面でサングラスを掛けた怖そうな先生が出迎え、怒られると思ったら、その一声が「よくきたなぁ。どこからきた」でした。そして、出土したばかりの土器を取り上げ、私たちに触れさせ「これが4500年前の火焔土器だぞ。ここはすばらしい遺跡だけれど、土取りで破壊されるので発掘調査しているのだよ」と丁寧に話してくれました。そして、これから朝飯だからいっしょにということで鶴屋という旅館にいき、朝飯を食べながらさまざまな遺跡の話をしてくださりました。そして帰りに「これで三条に着いたらラーメン食べれ」とお金を頂き、「勉強をしっかりして」と頭をなでていただきました。

私たち中学生は、このふたつの体験があまりにも違うことに驚きながらも、ますます考古学の魅力に引き込まれ、三条中央公民館を借りて勉強会を始め、三条ジュニア考古学クラブを結成することとなります。