現在、「火焔土器」発祥の地として著名な馬高・三十稲場遺跡(長岡市関原町1丁目)の整備事業を進めています。特に馬高遺跡の部分では、火焔土器がつくられたころの縄文ムラの姿を再現するデータを得るため、これまでに何回かの発掘調査を行い、竪穴住居跡や貯蔵穴などの遺構とともに多量の遺物を発見しました。
遺物では何といっても縄文土器の破片が多いのですが、そのほかに石器類も出土しています。石器類のなかには、狩に用いる石鏃(矢じり)があって、その材料として少量ながら黒曜石が使われていました。黒曜石はガラス質の岩石で割れ口が鋭く、獲物を刺したり切ったりするには最適で、旧石器時代から石器の材料として使われてきた一種のブランド品です。全国には黒曜石の産地はたくさん見つかっていますが、長岡地域にはありません。ですから、馬高遺跡で発見された黒曜石は他の地域から運びこまれたものといえます。
近年、理化学的な分析によって黒曜石の産地を推定する研究が行われており、縄文時代の交流を探る手がかりとなっています。分析にはいくつかの方法がありますが、馬高遺跡の黒曜石については、蛍光X線分析という方法で試してみました。この方法は、黒曜石に含まれる微量な成分の元素の割合を測り、産地を確率的に判定するものです。
その結果はとても興味深いものでした。新潟県内として、板山産(新発田市)と佐渡産、県外では長野県産(和田峠)のほか、山形県産(月山)、栃木県産(高原山)、東京都産(神津島)が判定されたのです。長岡地域の縄文遺跡では、県外は長野県産、県内では板山産が一般的ですが、馬高遺跡の場合、遠く離れたいくつかの地方の黒曜石が持ち込まれているようです。伊豆諸島の神津島とは直線距離で約400kmに及びます。それらの地方と直接的なつながりがあったのか、ムラからムラヘ転々と運ばれてきたのか…。分析した黒曜石は1~2cm程度のとても小さなかけらなのですが、広範囲にわたる交流をうかがわせるとともに、交流の拠点となるような馬高遺跡の中心的な性格が浮かび上がってきます。