考古学コラム Archeology Column

コラムNo.29 ケイシキメイあれこれ

長岡市立科学博物館 新田康則

博物館などで縄文土器をみる時、「〇〇式」あるいは「〇〇式土器」という説明を良く目にすることと思います。縄文土器は、ある程度の時間幅(存続時間)をもつ地域的なまとまり=型式(けいしき)というものに分類されています。「〇〇式」というのは、型式の名前なのです。今回は、この型式名についてお話したいと思います。「型式」って何?という難しいテーマはいずれまた別の機会に…。

型式の命名法にはいくつかのパターンがあります。多くの場合、型式を設定する基準となる資料が出土した遺跡(僕たちはこれを「標式遺跡(ひょうしきいせき)」と呼びます)の名前が採用されます。例えば、縄文時代後期はじめころの「三十稲場式」は、長岡市三十稲場遺跡を標式とします(「三十稲場式」についてはコラム№24 佐藤信之さんの「信濃川を中心としたもう一つのクニ」をご一読ください)。この他、新潟県でもなじみの深い「大木式」は、宮城県の大木囲貝塚、縄文中期の「加曽利E式」そして縄文後期の「加曽利B式」は、それぞれ千葉県の加曽利貝塚E地点・B地点出土の資料を基準に設定・命名されています。

少数派ではありますが、土器のかたちや模様の特徴から型式名が付けられる場合もあります。東北地方北部~北海道に分布する「円筒式」は、やや細身で寸胴の特徴的な形状から「円筒土器」と呼ばれたことに由来します。この円筒式は、出土層位から縄文時代前期の「円筒下層式」、これに続く中期の「円筒上層式」に分けられています。有名な青森県の三内丸山遺跡からは、大量の円筒式土器が出土しています。ちなみに、同様にかたちの特徴から命名された「火焔型土器」。これは型式名ではなく、型式をさらに細かく分類したまとまりの名前なのでご注意を。

 ではここで問題です! この夏、長岡市馬高縄文館で開催した特別展「南三十稲場式土器をさぐる」(会期:平成26年7月19日~9月7日)。さて、この「南三十稲場式」という名称は何に由来するものでしょう? 形からではないことは一目瞭然ですよね!

「南三十稲場遺跡」とお答えいただいたみなさん。今までの説明を読んで頂きありがとうございます。でもごめんなさい。南三十稲場という名の遺跡は存在しないのです。「南三十稲場式」は三十稲場遺跡の南側(南地点)からまとまって出土した土器を基準に設定・命名された型式です。遺跡名が先にきて、地点名などが後に付くのが一般的なため、それを知っている人ほどワナに陥ってしまいます。

実は「三十稲場南式」などとと命名されなかったのには理由があるのです。

火焔土器の発見で有名な長岡市関原の素封家・近藤家が収集した膨大な三十稲場遺跡出土遺物。そこに記された注記(出土地点等のメモ書き)はおよそ、三十稲場・東三十稲場・西三十稲場・南三十稲場・北三十稲場の5つに分けられます。近藤家の後、三十稲場遺跡の調査を進めた長岡市立科学博物館の中村孝三郎さんは、遺跡のうち遺物の密集地点は五ケ所と記しており、これと対応するのでしょう。南三十稲場は戦後の開墾によって発見された地点とされますが、発見当初からこの名で呼びならわされていたのでしょう。ここからまとまって出土した沈線文を多用する土器群が、三十稲場遺跡の中心(三十稲場地点)で出土する刺突文を多用する土器=「三十稲場式土器」とは明らかに区別されることから「南三十稲場式」と呼ばれるようになったのです。中村孝三郎さんは三十稲場地点をA地点、南三十稲場地点をB地点とも呼んでいます。もし仮に先行する近藤家の業績がなかったら、三十稲場式は三十稲場A式、南三十稲場式は三十稲場B式と命名されていた可能性があります。つまり、型式名には研究の出発点が刻み込まれていると言えるのです。

研究の進展によって、標式遺跡よりも内容豊かな遺跡が発見されたり、標式遺跡の位置が型式分布の端であることが明らかになることもありますが、それによって型式名が変更されることはありません。型式名がコロコロかわると混乱が生じてしまうという理由もありますが、一番の理由は研究史(学史)を大切にするココロです。どうですか?型式名ってけっこう奥が深いでしょ??